循環

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命の循環をイメージすることは、僕たちが生きていくうえでとても大切なことです。自然と触れ合っていると、僕たちはあらゆる生命のおかげで生きていることを実感できます。自然は、僕たちの暮らしのために一方的に壊してもいい存在ではないと実感できると思います。

僕たちの体は、炭素で出来ています。

炭素を元に、窒素とか酸素とか水素とかいろんなものがくっついて、僕たちの体が出来ています。僕たち人間以外の、他の命の体も同じです。

こんなふうに「炭素で出来た生命の体」を、僕たちは有機物と呼んでいます。有機物は、「炭素を含んだ、生命由来のもの」という意味なのです。

僕たちは炭素そのものなのですが、残念なことに僕たちは自分の力で炭素を体に取り込むことは出来ません。

炭素は、空気中には十分にあるのです。大気中では、二酸化炭素として存在しています。でも、僕たちは空気中から二酸化炭素を吸って、炭素を取り込むことが出来ません。

そんな非力な僕たちの代わりに空気中から炭素を吸ってくれている存在がいます。それが植物です。

植物は、僕たちと同じように呼吸をしているのですが、これは、酸素を吸って二酸化炭素を出す生命の機能です。

でも、植物は同時に二酸化炭素を吸って酸素を出すという逆のこともしています。これが光合成です。光合成には、太陽の光のエネルギーを使います。

「植物は二酸化炭素を吸っている」というのは、つまり「炭素」を吸っているということです。炭素を体に取り込んで、それをいろんな元素と組み合わせて、体やエネルギーをつくっています。

植物の本質は、体に「炭素」を取り込むことだと僕は思っています。例えば稲は、自然界から炭素を取り込んで、お米として僕たちに与えてくれています。

だから僕たちは、植物が炭素を吸ってくれることで間接的に生きています。つまり、僕たち人間は植物を食べることでしか炭素を体に取り込むことはできません。

僕たちが直接利用できない炭素と太陽エネルギー。命の循環、つまり食物連鎖の一番最初、一番土台の部分に植物がいるのです。

僕たちは、植物を食べて受け取った炭素をもとに自分の体をつくります。僕たちが今日も生きているのは、植物のおかげです。

役割を終えた生命の体は、分解されて自然に還ります。植物もそうですし、僕たち人間もそうです。

僕たちは命を終えると、また二酸化炭素として自然に戻ります。

例えばこの先僕が死んだとして、その後は火葬で燃やされるか、土のうえで微生物に分解されるか、どんな過程を経てもいいのですが、どんなプロセスであっても最終的に二酸化炭素として自然に還ります。

二酸化炭素になって大気中を旅する僕は、エントロピーに従って世界全体に溶けていきます。

でも、またそのうち植物に吸われて、植物の体になります。

その植物を、虫が食べるかもしれないし、その虫を、動物が食べるかもしれません。その動物を、人間が食べるかもしれません。

そうしたら、僕はまた人間になります。

こんなふうに、僕は「炭素」という船に乗って、人間になったり、植物になったり、虫になったり、動物になったりします。あるいは大気中を漂ったり、海に溶けたりしているときもあります。

僕が今この瞬間「人間」の形をしているのは、一瞬の偶然なのです。

ちなみに、僕たちの体の元に物質として炭素の他に「窒素(ちっそ)」もあるのです。窒素は、炭素とくっついて僕たちの筋肉になる物質です。窒素も、空気中にたくさん存在しています。

でも、窒素に関しては植物でさえも空気中から直接取り込むことはできません。空気中から窒素を吸ってくれているのは、「菌」たちなのです。

そのへんのシロツメクサの根を見てみてください。根っこにツブツブがついていますが、これは根粒菌(こんりゅうきん)と呼ばれる菌です。植物と共生して、窒素を植物に分け与えています。空気中から窒素を取り込むことが出来るのは、特定の菌だけなのです。

菌から植物へ。植物から僕たちへ。窒素はそのようにして、循環しています。僕たちが筋肉を発達させて体を動かせるのは、そのへんに存在する菌たちのおかげです。

植物や菌など、いろんな生命のおかげで僕の心と体がつくられています。全体を見渡せば、まるで流れる川のようです。空。海。山。川。畑。僕の体。すべては見えない糸でつながっています。

これは、僕がイメージしている「自然の循環」のお話です。このようにして世界を見ると、その辺の雑草にも役割があり、僕たち人間にはできないことを成し遂げている立派な存在であることがわかります。自然は、僕たち人間が一方的に破壊していいものではないと僕は思っています。