ポリヴェーガル理論でわかる「食べる」と「安心」の神経科学

ココロとカラダ学


なぜ、安心するとお腹が鳴るのか。
緊張しているときに食欲がなくなり、安心するとふっとお腹が空く。そんな経験は、誰にでもあると思います。

これは気分の問題ではなく、体の中にある“安全センサー”の働きによるものです。

そのセンサーの中心にあるのが、迷走神経です。そしてその迷走神経の仕組みを解き明かしたのが、アメリカの神経科学者スティーブン・ポージェス博士によるポリヴェーガル理論(Polyvagal Theory)です。

この理論を通して見えてくるのは、「安心して食べる」という行為が、単なる心の問題ではなく、神経と代謝の生理リズムに直結しているということです。

迷走神経 ― 体を“安心モード”に戻す神経

迷走神経は、自律神経のうち副交感神経系の中心を担う神経。脳幹から胸やお腹に枝を伸ばし、心臓・肺・胃腸・肝臓など、ほとんどの内臓とつながっています。

この神経の主な役割は、呼吸や心拍のリズムを整えること、胃腸の動きを促して消化を助けること、そして「安全」や「落ち着き」を体に伝えること。
つまり、迷走神経は体を“安心モード”に戻す神経回路なのです。


自律神経には“3つのルート”がある


「気持ちは落ち着いているのに、なぜか食欲が湧かない」

そんな経験はありませんか?

実はこの“気持ちと体のズレ”には、神経の仕組みが関係しています。そのカギを握るのが、迷走神経です。

私たちは長い間こう教わってきました。

自律神経には2種類ある。

交感神経=戦う・逃げる

副交感神経=休む・リラックス。

シンプルで分かりやすい構図です。けれど、この二分モデルでは説明できない現象がありました。

「落ち着いているつもりなのに、なぜか食欲がわかない」「静かなんだけど、心が動かない」。

これは、副交感神経の落とし穴です。一見リラックスしているようで、実は体が“安心”ではなく“防御モード”に入っている。

ポージェス博士は、長年の研究の中で発見しました。「副交感神経の中にも、“守る”ルートと“安心する”ルートがある。」つまり、副交感神経には安全と防御の両面があったのです。

ざっくりと言えば、副交感神経には2つの流れがあります。

背中側を通る“背側迷走神経”と、お腹側を通る“腹側迷走神経”。どちらも「休む」働きを担っていますが、役割はまったく違うのです。

〇背側迷走神経:原始的な停止反応(フリーズ)→ 無気力、食欲低下、閉じこもり

〇腹側迷走神経:つながり・安心 → 呼吸が深く、穏やかに食べられる

背側迷走神経は、魚類や爬虫類の時代から存在する“古い神経”。危険にさらされると、体を止めてエネルギーを節約し、「これ以上傷つかないように」守る。だから、ストレスで無気力になったり、食欲を失ったりするのは、体が生き延びようとしている反応なのです。

一方、腹側迷走神経は哺乳類になってから発達した“新しい神経”。社会的なつながりを通じて安全を感じるための仕組みです。呼吸が深まり、表情がゆるみ、「人と関わっても大丈夫」と体が判断したときに働きます。

昔は「副交感=安心」と大雑把に認識されていました。でも博士の発見は違いました。

副交感神経の中には、“防御”と“安全”というまったく逆のルートが存在する。

「落ち着いているのに食欲がない」のは、腹側ではなく背側の副交感が働いているからなのです。

博士はこう結論づけました。真の安心モードをつくるのは、腹側迷走神経である。

腹側迷走神経を働かせるスイッチは、特別な訓練ではありません。

つながり(Connection)です。

人と目を合わせる。声のトーンを感じる。笑う。呼吸を合わせる。温かい食事を共にする。それらすべてが神経に「今は安全だ」と伝える信号になります。

つまり、「落ち着いている」と「心から安心している」は似ているようで、神経の動きはまったく違う。本当の意味で体が“安心”を感じているとき、はじめて“食べても大丈夫”になるのです。

安心して食べるとは、“つながりの中で背側から腹側へ戻る”こと


〈無気力フリーズモード:背側迷走神経
緊張しているとき、食欲がなくなったり、強いストレスの中で「何も食べたくない」と感じる。これは意思の問題ではなく、背側迷走神経が優位になっている状態です。背側は、極度のストレスや孤立で働く“防御のスイッチ”。体を止め、心拍や血流を落とし、命を守ります。このときは、食べる余裕そのものがない。

戦闘モード:交感神経
やがて、少し動けるようになると、交感神経が優位になります。「頑張らなきゃ」「なんとかしなきゃ」。このモードでは行動できる反面、胃腸の働きは後回しに。早食いや過食が起きやすくなります。

安心モード:腹側迷走神経
そしてさらにその先、腹側迷走神経が働くと、呼吸が深まり、表情がゆるみ、消化が戻り、「いまは大丈夫だ」と体が判断します。

背側(止まる)→交感(動く)→腹側(つながる)。

食べることは、体が再び世界と関係を取り戻すプロセス。そしてそれは、“自分の生命と再びつながる瞬間”でもあります。

食卓は、安全とつながりを思い出す場所


安心とは、神経が「もう大丈夫」と判断したときに体の奥から湧く感覚。そのスイッチを押すのが、つながりです。

博士は言いました。
Safety is not the absence of threat, but the presence of connection.
(安全とは、脅威がないことではなく、つながりがあることだ)

孤独や不安を感じると、迷走神経は背側のルートに傾きやすくなります。

体が守りに入り、食欲が落ち、心が内に閉じていく。反対に、人とのつながりを感じると、腹側が働き、体は再び世界へ開かれます。

つながり。これが迷走神経の方向性を決め、食事にも影響します。普段、誰かとちゃんとつながれているかで、健全な食欲と食行動が生まれるんです。

だから、温かい食卓を大切な人と囲むことはとても大切なのです。なぜなら、そこには言葉を超えた“神経の会話”があるからです。

食卓は、つながりを見つめ直すための場にもなります。1人で食べる場合も、食事以外の日常の中で誰かとつながりをつくっていることが大切です。それが食欲や食行動に影響すると、迷走神経が教えてくれます。

「安心して食べる」とは、神経を通して“人間らしさ”を取り戻す行為でもある。食べることが、私たちを再び世界と結び直してくれるのです。


参考文献

Porges, S. W. (2011). The Polyvagal Theory.
Kolacz, J. et al. (2018). Frontiers in Neuroscience.
Thayer, J. F., & Lane, R. D. (2000). Journal of Affective Disorders.
Saper, C. B. et al. (2012). Nature Neuroscience.