フォレストガーデン/小さな庭の大きな恵み

自然デザイン学

森が教えてくれるデザイン

フォレストガーデンとは、森の仕組みを手本にした“食べられる庭”のことです。木々や草花、虫や菌までもが互いに支え合いながら生きる森のように、人と自然が共に育ち合う庭をデザインします。肥料や農薬に頼らず、自然の力そのものを生かすことで、暮らしの中に小さな循環が生まれます。

フォレストガーデン

フォレストガーデンの特徴は、森のような階層性、多様な役割をもつ多機能性、そして生命が自ら循環する自己循環性にあります。
背の高い植物から地を這う草まで、大小さまざまな生命が重なり合い、光や水、養分を分かち合いながら育ちます。それぞれの植物は、食料としてだけでなく、香り・日陰・防風・保湿・癒しなど多様な働きを担い、全体がひとつの生命体のように調和していきます。

この庭には、ルールも効率もありません。
あるのは、生命が自然に調和しながら動くリズム。
木の下ではハーブが香り、足もとにはクローバーや野草が風にゆれる。季節ごとに小さな実がなり、花が咲き、虫たちが集まる。人はその中を歩きながら、その日に必要な分だけを摘み取る。そんな静かなやりとりの中に、“生きている豊かさ”が息づいています。


フォレストガーデンは、広い土地がなくても始められます。
たとえば、庭の片隅やベランダに鉢をいくつか置き、ハーブや果樹、野菜を層のように重ねて植えるだけでも、小さな森の循環は生まれます。ミントが地面を覆い、ネギやバジルが香りを放ち、ミツバチや蝶がやってくる。限られた空間でも、自然はその力を惜しみなく分かち合ってくれるのです。

フォレストガーデンの本質は、食料を得るためだけの仕組みではありません。
それは、自然と人の関係性を取り戻すデザインであり、“心地よい暮らしの感覚”を思い出すための哲学です。草を刈る手を休め、鳥の声に耳を澄ませる。そんな時間の中で、人は「生かされている」という感覚を取り戻します。

この庭をつくることは、同時に自分の内側にも森を育てること。
調和とゆらぎの中にある美しさ──それこそが、フォレストガーデンの教えてくれる“生命のデザイン”なのです。

森のような畑づくり(実践デザイン)

フォレストガーデンとは、自然の生態系が織りなす循環の仕組みをそのまま生かして植物を育てるデザインです。森では、木々や草花、菌や虫がそれぞれの役割を果たしながら、誰に指示されることもなく調和を保っています。その関係性を小さな庭の中に再現することで、人の手をほとんど加えずとも、自然が自ら豊かさをつくり出してくれるのです。

フォレストガーデンの特徴は、階層性・多機能性・自己循環性。
背の高い植物から地を這う草まで、多様な層が光や水、養分を分かち合い、ひとつの生態系を形づくります。それぞれの植物は、食料・香り・日陰・防風・癒しなど多様な役割を担いながら、全体でひとつの生命体のように働きます。そして、虫や菌が命をめぐらせ、外から肥料を入れなくても自ら循環する。まさに“森のように自立した畑”が生まれるのです。

その結果、次のようなメリットが得られます。

肥料は最小限でよい

水やりはほとんど不要

耕うんの必要がない

水の少ない場所でも育つ

車が入らない土地でも実践できる


とはいえ、これは「何もしなくていい」という意味ではありません。
自然の仕組みが整えば、肥料や水やり、耕うんをほとんど必要としなくなる──そのために、最初の数年は土づくりや観察を重ねる期間が必要です。やがて土地が自立し、自然のリズムが働き始めます。

ガーデンをつくるヒント

草を味方につける



まず大切なのは、草を敵にしないことです。刈り取った雑草はそのまま土の上に敷き、マルチとして利用します。これが地表を覆うことで、保温・保湿を行い、やがて分解されて腐植となり、肥料へと変わります。地表を覆う草は、乾燥や強い日差しから土を守る“森の皮膚”のような存在です。

中でもクローバーはとても優秀です。マメ科の植物なので、根に共生する根粒菌が空気中の窒素を取り込み、植物の栄養に変えます。クローバーなどのマメ科植物は、引っこ抜かずにそのまま枯らすことで、菌が取り込んだ窒素が土へとゆっくり還元されていきます。草を生かすことは、同時に土を育てることでもあります。


植物は引っこ抜かない

一年草は抜かずに収穫するか、収穫後も抜かずに枯れさせましょう。もし邪魔な場合は根元を切り、地表に寝かせておきます。時間が経つと、茎や葉は分解され、菌やミミズの働きによって土に還っていきます。

植物を引っこ抜いてしまうと、根がつくっていた土の中の小さな空洞が崩れてしまいます。この空洞は、微生物の通り道でもあり、彼らが動きながら出す粘性物質が土の粒をまとめて団粒構造をつくります。団粒構造は、スポンジのように空気と水分を抱えこむ土の形。酸素や水分、養分を保ち、根が呼吸できるすき間を生み出します。

この“見えない世界の構造”こそが、自然の肥沃な土の正体です。
人が掘り返すほどにその構造は壊れてしまうため、フォレストガーデンでは手を入れすぎず、生命の働きを信じて任せます。


生態系肥料


フォレストガーデンの土を肥やすのは、人の手ではなく生態系そのものです。
虫や小動物、菌たちの命の循環が、植物に必要な栄養をゆっくりと届けます。

経験的にも、肥料──とくに窒素分を多く与えると、虫の被害が大きくなることがあります。窒素が多いと植物の葉にアミノ酸や糖分が増え、それを好む虫たちが集まりやすくなるからです。フォレストガーデンでは、落ち葉や生ごみ、マメ科植物からの窒素など、自然由来の養分を主な栄養源とします。こうした緩やかな供給は窒素の過剰を防ぎ、虫害を減らし、植物を健やかに保ちます。

生態系がつくり出す肥料は、人間の技術よりもずっと緻密です。誰かの命の終わりが、次の命の始まりになる。その循環の中に身を置くとき、植物は強く、しなやかに育っていきます。


多様性をデザインする


フォレストガーデンでは、「この植物とこの植物を組み合わせると良い」といった固定的な考え方よりも、多様な植物を重ねて植えることを大切にします。多様性が高いほど、病害虫の被害は分散し、光や養分の利用も偏らず、生態系が安定します。

たとえば、ハーブやネギ類を野菜のそばに植えると、香りが虫を遠ざけることがありますが、それは“特別な相性”ではなく、多様性による全体の調和によるものです。スベリヒユのような食べられる雑草を残すのも同じ。少しの“混ざり合い”が生命を支えるのです。

人が整えすぎず、自然にゆだねることで、庭はより健やかで豊かな空間へと育っていきます。


循環するガーデンに


庭の隅に生ごみコンポストを置くと、家庭の残渣(ざんさ)が土に還り、微生物が野菜を支えてくれます。台所と畑がつながることで、暮らし全体が小さな循環を描きます。また、刈った草を地表に戻す「草マルチ」は、腐植を増やし、団粒構造を促し、地温と湿度を保ちます。こうして暮らしと土がひとつにつながっていきます。


空間の工夫

限られた土地でも、植物の高さや性質を生かせば、ひとつの庭の中に小さな森のような立体構造を生み出せます。

高い植物が育つと、それ自体が天然の支柱になり、つる性植物が巻き付きながら共に成長します。影ができることで、直射日光を苦手とする耐陰性の植物が安心して根を張ることもできます。さらに、植物の配置によって風の通り道ができ、庭の中に微気象(小さな気候環境)が生まれます。

果樹を植えられない場所でも、オカワカメのような多年性のつる植物を使えば、木のような構造をつくれます。また、背の高い植物は北側に配置し、太陽の光を奪い合わないようにするのが基本です。

空間をどう使うかという設計が、やがて生命の関係性そのものを形づくっていきます。人が少し工夫するだけで、自然はすぐに応えてくれるのです。

森と心のデザイン

フォレストガーデンを育てるというのは、同時に自分自身を耕すことでもあります。草を抜かず、虫を追い払わず、自然のバランスを信じて任せるという姿勢は、自分の中の「コントロールしたい心」を少しずつ手放す練習のようなものです。

森づくりには“待つ”時間が必要です。
すぐに成果を求めず、季節の移ろいを観察しながら、自然のペースに寄り添う。すると、土の中で起きている小さな変化や、草や虫のリズムが、まるで心の鏡のように感じられてきます。

葉が落ち、分解され、新しい命の養分になるように、僕たちの心もまた、手放すことで次の芽を出します。失敗も、迷いも、焦りも、すべてが次の循環を支える土になる。


そしてもうひとつ、僕が大切にしていることがあります。
それは、フォレストガーデンの考え方を、だれかを否定するためのものにしないことです。

僕はこのやり方が好きだからやっています。
でも、特定の農法や考え方を推し進めるつもりはありません。
僕のフォレストガーデンは、自然の中で過ごし、観察し、試しながら、自分なりに形づくってきたものです。そこには特定の思想や価値観はなく、ただ「自然から学ぶ」という姿勢があるだけです。

多くの農家さんは、できるだけ化学物質を減らそうと、たくさんの工夫を重ねています。その姿にも、フォレストガーデンと同じ“自然を思う心”が息づいています。
僕は、自分で土に触れる経験を通して、農薬や肥料に対する見方が少しでもやさしくなる人が増えたらいいなと思っています。

パーマカルチャーの本質は、対立ではなく多様性の共存です。
それぞれの人が、それぞれの環境や価値観の中で自然と関わること。どんな方法にも、その人なりの理由と背景があります。

フォレストガーデンは、有機栽培や自然農法を推すものではありません。
ただ、個人が自分の手で小さな庭をつくり、自然の循環と再びつながるための、ひとつの入り口でありたいと思っています。

森をつくるとは、命の仕組みを自分の手で再現すること。
そしてその手が土に触れるたびに、僕たちは思い出します――
人間もまた、生命の大きな循環の一部であるということを。